ぷくぷく兵村記念館版

旭川兵村記念館シリーズ第1号

旭川兵村記念館シリーズ第1号

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 先日、兵村記念館で行われている特別展『くらしの中の日の丸』にお伺いし『ぷくぷく』に掲載させていただきました。その際、常設記念館の方にも、ご招待していただいたのですが、初めてこの地域の歴史を目の当たりにし、内容の深さに驚きました。
 現在、北海道では、札幌に次ぐ都市と知られている旭川ですが、この旭川が、どう開拓されていったのかご存知でしょうか。現在の東旭川・豊岡地域は、旭川の始まりの地だったのです。兵村記念館は、そんな歴史の資料が残されている道内有数の場所。館長さんに、ご協力いただきながら『シリーズ』(全10回)で、当時の旭川を振り返ってみようと思います。

(1)屯田兵とは・・・

Q1. 「屯田兵」ってなあに?

 本州から北海道へ、開墾と防備に来た兵士のことを『屯田兵』といいます。幕末から明治にかけ、ロシアは南下政策をとり、樺太を占領、更に北海道をも占領しようとしました。その北海道の防備と、開拓にあたった兵士が屯田兵です。こうした屯田兵の制度のことを『屯田兵制度』といいます。

Q2. 屯田兵は誰がなったの?

 「屯田兵制度」は、前期と後期に区分されます。前期の屯田兵は「士族屯田」といいます。これは、失業士族の救済が目的だったため、武士の家柄から募集されていますが、明治23年、条例が改正され、後期「平民屯田」へ移行しました。こちらは、その名の通り平民からも募された屯田兵です。

Q3. 旭川のどの地区に屯田兵が入植したの?

 明治24年、永山村の東・西兵村に400戸(現在の永山)、翌年25年には、旭川村の上・下兵村に400戸(現在の東旭川)、当麻の東・西兵村に400戸(現在の当麻)の合計1,200戸が、入植しました。

Q4. 旭川兵村のことを、もっと詳しく教えて!

 旭川兵村には、明治25年8月、上兵村200戸、下兵村200戸、合計400戸(家族含め2,334人)が入地しました。小樽に上陸した時に、抽選がおこなわれ、渡された番号の通りに入地したそうです。
 兵村記念館のすぐ近くには、旭川兵村へ入植した屯田兵の氏名が彫られている記念碑が立っています。

 屯田兵は、200人前後の中隊を一つの単位として兵村を作っていました。現在、東旭川に「上兵村・下兵村」の町名がありますね!その名残です。
 「屯田兵制度」は明治7年から明治37年まで、その間に、37兵村、7,337戸が入植しており、家族を含めると、39,911人となります。