ぷくぷく兵村記念館版

旭川兵村記念館シリーズ第2号

旭川兵村記念館シリーズ第2号

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 第1回目の「屯田兵」につづいて、
 第2回目は「屯田兵の生活」についてです。


(2)屯田兵の生活

Q1. 旭川兵村の屯田兵は、どこから来たの?

 旭川兵村には、明治25年8月に、上兵村200戸、下兵村200戸、合計400戸(家族含め2,334人)が入地しました。表のように各地から、入地しています。

Q2. 屯田兵と家族の仕事って、なあに?

 入植当時、この旭川兵村は、密林地帯だったので、とても伐採には苦労したようです。木の伐採は冬に行うため、雪がとけると、切株が人の背以上の高さに残っています。水田の中に切株が残ったままの写真も記念館に残されていすが、地中深くまでのびた根を掘り起こすという作業は、おそろしく辛い労働だったといわれています。伐採後も、地面は熊笹だらけで、刈り取ったり、処分など、耕作を進めるにも、かなりの手間がかかっています。
 生活規則は非常に厳しく、起床、就業の時間が定められていました。「屯田兵」というその名の通り「兵士」ですから、午前中は軍事訓練、午後からは開墾をする日々で大変な苦労だったようです。

Q3. 屯田の生活は、どうだったの?

 屯田兵は、移住支度金や旅費を支給され、家族を連れて入地し、用意された「兵屋」といわれる家(兵村記念館に復元。他、東旭川には、道内唯一開拓現地に残っている兵屋がある)を与えられています。「兵屋」は中に入ると、土間になっており、炉を据えた板の間(居間)、奥には障子で区切られた畳敷の2部屋(6畳、4畳半)の3部屋ですが、この住宅では、寒さとの戦いだったようです。暖国出身者が多かったので、とても冬の生活は厳しかったといいます。                                      
 その他、日常の生活用具・衣服・農具・寝具などの官給品が支給されました。そして、初めに未開拓の土地1.5ヘクタールが割り当てられています。その1.5ヘクタールの開墾が終わると、残りの3.5ヘクタールが支給されたそうで、合計5ヘクタールとなります。兵村記念館には、その「宅地割一覧図」も屯田兵の氏名入りで残っています。      

Q4. 自給自足の生活は成り立ちましたか?

 入植後、麦、稗、粟、豆、芋の畑作物などを作っていたようですが、その数年後には、本州で米作りをしていた人々が多かったので、次第に稲作に向かいます。
 が、この寒い北海道では、本州の稲作は合わず、うまく育ちませんでした。そこで直播による稲作が行われるようになりました。この稲作の苦労は並大抵のものではなかったそうですが、大変な努力の結果、この地域は北海道一の米の収穫地帯となりました。道内には、気候や土地が悪く、農作物が育たずに、土地を離れることになった地域の屯田兵もいたそうです。

 稲作が進み、成功した理由のひとつに、農機具の発明があります。この地域には、大変な発明をした方々がいらっしゃいました。代表するもののひとつに、教科書にも登場した「たこ足」といわれる、もみまき機があります。(第6号で詳しく紹介)それまでの手作業から「たこ足」といわれる、農機具が発明されたことによって、農作業が能率よくおこなわれるようになりました。「上川百万石」といわれるようになる礎が、ここから始まりました。大変な苦労が生んだ知恵だったのです。
 そんな働き通しの苦労を重ねた屯田兵の家庭ですが、それでも米を食べられなかった時代。正月と、お盆のみお米を食べることができ、普段は、芋や、あわ、きびなどを混ぜた雑炊が主だったそうです。