旭川兵村記念館シリーズ第3号

第3回目は、幻となった『上川離宮計画』についてのお話しです
(3)上川離宮計画
Q1. 北海道って、いつから呼ばれているの?
明治2年、「北海道」と改称し、上川一帯は、石狩国上川郡となりました。
明治5年、開拓使の大判官だった「岩村通俊」が、上川を調査させています。その際、上川は強風もなく、肥沃大地があり、試作した穀菜類の成育が札幌方面よりも優れているという報告をうけています。
Q2. 近文山の『国見の碑』の意味は?
明治18年、司法大輔となった岩村通俊は、永山武四郎(屯田兵本部長)長谷部辰連、佐藤秀顕と共に近文山(嵐山の裏山)に上り、忠別原野(現上川盆地)の視察(国見)をおこないました。豊かな原野に上川発展の重要性を認識し、岩村通俊は『北京(Q3)を上川に置く議』を内閣に送りました。北鎮記念館にある「近文山の国見」の絵は、岩村通俊と永山武四郎が、アイヌ人に案内され、近文山から上川を見渡した絵です。
明治19年、岩村通俊は初代北海道庁長官に就任しました。2代目長官の永山武四郎と、旭川の市街区画、道路開削など、開発の基礎を造り上げました。この年、国見に来た証として、岩村通俊は、近文山に『国見の碑』を建てています。これは、旭川でもっとも古い石碑なのだそうです。
Q3. 北京(Q2より)ってなに?
初代北海道庁長官「岩村通俊」は、北海道の中央部にある上川を中心に、北海道を開発しようと考えました。そして、旭川に「北京構想」を政府に提出しました。
この「北京」ですが………京都(西京)、奈良(南京)、江戸(東京)があり、唯一なかったのが「北京」でした。開拓民の士気向上を図り多くの人々を旭川に移住させる目的で計画されたのが、この計画です。実際に、旭川に入植した屯田兵は「北京」が置かれると聞いていたことから、志願した人も多かったそうです。
Q4. 北京をつくる計画は、その後どうなったんですか?
明治22年、2代目北海道庁長官となった「永山武四郎」(永山村の名前の由来となった人)は、「北京」を上川に作るという、岩村通俊の意志を引継ぎました。これを当時の法制長官は、反対しました。ですが、宮内大臣は、「北京計画」から「離宮計画」と改め、3日という異例の早さで設置することを決めました。
Q5. 離宮ってなに?
「離宮」とは現在でいう皇室の別荘ということになります。
Q6. 離宮計画は、実現されたんですか?
離宮計画には、明治22年に神楽一帯が御料地に編入されました。計画のため、道路や屯田兵村の入植や整備も進み、人口も増加しました。
しかし結局『上川離宮計画』は、札幌や小樽の経済界の反対運動や、時悪く日露戦争が勃発したことなどもあり、実現されずに終わってしまいました。
明治23年には、上川郡最初の村、永山、旭川、神居が開村。そして明治25年、神楽村が開村します。現在上川神社がある神楽岡公園一帯33ヘクタールが離宮予定地とされ、その調査も行われています。
現在も、「上川離宮予定地」と記した碑が上川神社内に建っています。神社へいく機会があったら、是非この話しを思い出してみて下さい。
今や幻となってしまった「上川離宮計画」。実現していれば、この旭川は、北海道第一の中心都市に発展していたことでしょう。それを懸念し反対した人達がいたからこそ実現されなかった残念な計画が過去にあったんですね。後ほど、別の回で、今回出てきた有名な『永山武四郎』さんの、お話しにも少し触れてみたいと思います。









