旭川兵村記念館シリーズ第6号

第6号から8号までは、屯田兵に関する各有名人を、ご紹介していきます。
第6号は『屯田司令官と屯田の発明家たち』
第7号は『空の四勇』
第8号は『加藤建夫』についてです。
(6)屯田司令官と屯田の発明家たち
Q1. 発明って、何を発明した人がいるの?
前号でも一部ご紹介しましたが、旭川兵村には、大変な努力家が多く住んでいた村でした。特に、農機具の発明は有名です。順に、ご紹介させていただきます。
籾まき機「タコ足」
教科書にも載っているので、ご存知の方も多いのでは…?
本州では、苗を移植する方法で行われますが、気温の低い北海道では、同じ栽培方法では、うまく稲穂が実りません。そのため直播という、種モミを直接水田にまく方法が研究されました。これは水田に手で一定間隔にまく手作業で、1.5ヘクタールをまくのに十数日かかったそうです。その後「タコ足」が発明されます。これは、京都出身の屯田兵の父親である「末武安次郎」さんが考案したものです。8本×2列の管がついていて、効率よく種モミをまくことができる用具です。
水稲直播機「ネコ足」
これは、秋田出身の屯田兵「寺門重和」の家に養子で入った「寺門千我吉」の考案です。
これらの発明により、十数日かかった、1町5反の水田の籾まきが、女性でも1日に5反は軽く播けるようになり、北海道の水田が広がりました。北国の稲作を大きく変えた大発明品です。その他、馬を使った籾摺機の発明もあり、それまで人力だった籾摺りですが、3倍から4倍に能率が上がったそうです。
Q2. 屯田司令官って誰?何をした人ですか?
第3号の『上川離宮計画』でも出てきましたが、屯田兵の育ての親として知られています。北海道の開拓使へ、明治5年、36歳で永山武四郎は、札幌に赴任しました。以来、屯田兵制の創設から始まり、屯田兵開拓の司令官・二代目の北海道庁長官・初代の第七師団長として屯田兵制度の廃止まで勤めています。
「北海道の開拓は内陸部から」の強い意志で上川開発にも深くかかわっており「近文山の国見」の時は勿論、永山・旭川・当麻の指揮を取ったのも、この人でした。
「近文山の国見」でも触れていますが、上川開発の功労者であり、永山村(現在の旭川市永山)は、永山武四郎の姓からとったもので、現在は、永山神社境内に、永山武四郎将軍の像があります。
Q3. 「永山武四郎」って?
永山武四郎は1837年、薩摩の国
(鹿児島県)の生まれです。
○明治11年屯田事務局長
○明治21年第2代北海道庁長官
○明治29年第七師団長
(昭和20年まで旭川市にあった師団)
○明治36年貴族院議員。
○明治37年病死。
開拓使には、官邸や官舎が与えられていたため、私邸を建てるなど珍しいことでしたが、北海道を愛したと言われる永山武四郎は、最初に屯田兵が入植した札幌に私邸を建築しています。(現在も永山記念公園内に現存)
晩年は、東京で過ごしていますが「北海道の土となる」という本人の遺志で、札幌に埋葬されました。 最後まで、屯田兵と北海道に生きた人でした。









