旭川兵村記念館シリーズ第8号

今回は、前号に続き『空の四勇』のうちの4人目です。全国的に有名で、ご存知の方も多いかもしれませんが、加藤隼戦闘隊の『加藤建夫少将』についてお話しします。
(8)加藤建夫少将
Q1. 加藤建夫少将って、どこの人?
明治36年(1903年)9月28日生まれ。東旭川村字上兵村99で生まれています。京都から屯田兵として入植し、旭川屯田の軍曹を勤めた加藤鉄蔵さんの次男として生まれたのが、加藤建夫です。
1925年(大正14年) 陸軍士官学校(37期)卒業。陸軍少尉。
1927年(昭和02年) 所沢飛行学校卒業。
1928年(昭和03年) 所沢飛行学校教官。陸軍中尉。
1932年(昭和07年) 明野飛行学校教官。
1933年(昭和08年) 陸軍大尉。
1936年(昭和11年) 飛行第5連隊中隊長。
1937年(昭和12年) 飛行第2連隊中隊長。
1939年(昭和14年) 陸軍大学専科卒業。陸軍航空本部員。
1941年(昭和16年) 飛行64戦隊長。
1942年(昭和17年) 陸軍中佐。
同年5月22日ベンガル湾上空にて戦死。
後、2階級特進で陸軍少将に昇進。
Q2. どんな人だったの?
幼年の頃から、大変優秀だったという話しが、インターネット上で見られますが、実際のところ、生まれ育った旭川では、平凡な人だったと伝えられています。ところが、運動は万能で、とても勘がよかったそうです。
明治38年奉天会戦で父は戦死し、そのことが加藤少将の、その後の人生に大きく関わっていたようで「父の仇」と、小学校の文集にも軍人になる覚悟を綴っているそうです。また、前号でご紹介した、旭川出身の海軍少佐「赤石久吉」さんが、結婚のため帰省したとき、母校の旭川中学校で軍事講話をしました。その熱烈な講話を聞いた加藤少年は「同じ村の同じ屯田の家族の親近感」から、強い影響をうけ、パイロットを志したと言われています。
その後、旭川中学校を卒業し、仙台の陸軍幼年学校を経て士官学校を卒業し、パイロットになりました。
Q3. 加藤建夫少将とは…
加藤少将は、とても情が深く、大変部下思いの人情家だったそうです。いつも控え目な性格ですが、飛行機が何より好きで、素晴らしい操縦技術をもっており、訓練となると人が変わったようだったといいます。しかし、厳格で自分に厳しく、部下から信頼される軍人の鑑ような人であったそうで、現在残っているエピソードも、情の深さを感じさせるものばかりで、仲間を失う度、涙を流していたそうです。
昭和14年、加藤少将はヨーロッパやアメリカを視察しています。ドイツで披露された新型機の試乗をすすめられ、アクロバット飛行を試みたところ、ドイツのパイロットが驚いたほどの操縦技術であったといわれます。そして、アメリカとの、大きな国勢の差に「絶対、戦争はするべきではない」と正確に当時の情勢をとらえ、参謀本部へ強く勧告していたそうですが、残念なことに、その後戦争となってしまいます。
加藤建夫少将には、遺児が2人いまして、その長男が話した遺言について新聞に載ったそうです。出征前の加藤少将が「自分は日露戦争で戦死した屯田兵の子として生まれ、国を守るという強い気持ちから父親と同じ軍人になったが、子供たち2人には自分のように軍人を目指さなくてもいい、子供たち自身が本当に望む道を選ばせてほしい」と、妻に残しています。その後、長男は、大学で物理学を専攻し、学者になられたそうです。
Q4. 何をした人なんですか?
新鋭戦闘機『隼』を優れた技術で操る精鋭部隊として、大きな期待がかけられていた、64戦隊の部隊長でした。期待通り、見事な戦果を上げていった隼戦闘隊ですが、その後のアメリカとの戦争となり、昭和17年5月22日。最前線のビルマのベンガル湾空中戦で、仲間を撃墜された怒りに、加藤戦闘隊長は仇とばかりに敵機を撃墜しました。しかし、加藤戦闘隊長機も敵弾に当たっており、右翼から火が噴出しました。翼を左右に降り、後ろを飛行している仲間に別れを告げ、自ら真っ直ぐ海中へと向かい戦死。それは、自分が部下に教えた「海上で帰還不可能な状態に陥った場合の方法」であったそうです。翌日の新聞では、加藤建夫少将を讃える記事で、ほぼ全面をうめました。当時は、全国民に知らない者はいない有名人であり「軍神」と呼ばれるようになりました。
通常、部隊長が変わると部隊名も変わるのですが、功績が大きく有名になったことで、加藤建夫少将の戦死後も、部隊長が変わった64戦隊は『加藤隼戦闘隊』と呼び続けたそうです。
Q5. 軍神と呼ばれる理由は?
『加藤隼戦闘隊』は、加藤建夫少将の活躍によって、同名の軍歌ともなりました。その歌詞の中には『♪〜七度重なる感状の、いさおの陰に涙あり〜』とあります。これは、感状(戦闘で功績の大きかった者だけに与えられる表彰状のようなもので、これを貰うことは当時、非常に名誉なことだった。)の最高記録を持っていたことにあります。1度でも貰うのは、非常に難しかった感状を、加藤建夫少将は、7度貰い、史上例を見ない大記録として讃えられたのだそうです。
戦死後は、活躍を讃え、二階級特進し「中佐」から「少将」となりました。
昭和19年3月、黒澤明監督などの師匠として知られる東宝の山本嘉次郎監督により、『加藤隼戦闘隊』という加藤建夫少将の活躍から戦死までを中心に描いた、伝記映画が製作され、上映されています。(特撮は円谷英二が担当、現在もDVDとして発売中)
また、昭和44年「敵機268機を撃墜し、敵軍から "撃墜王"と呼ばれた加藤少将の壮絶な生き様」を描いた『あゝ陸軍隼戦闘隊』が映画化されています。こちらは、現在も活躍中の俳優が出演しています。









