旭川兵村記念館シリーズ 最終章

旭川兵村記念館は、本日4月29日開館です!
旭川兵村記念館館長 上田 良博
こんにちは、旭川兵村記念館の上田です。
この度、下村販売所さんのご尽力による『ぷくぷく兵村記念館』の10回シリーズが終了しました。
この企画と実施は、私ども記念館にとって大変な驚きと感謝でありました。間違いなく、下村さんの配達エリアの皆さんに私ども記念館の存在を知ってもらうことが出来たと確信します。また、親しみ深く分かりやすい常設展の解説は多くの賛辞が伝えられています。改めて、下村さんを始めスタッフの皆さんに心から感謝申し上げます。
さて、このシリーズの終了にあたり、本日は、「旭川屯田」の歴史の一端と新年度の特別展について、いくつか書かせていただきます。
1. 旭川の京都地名
お客さんを迎えて、まず私が案内しますのは、玄関のロビー正面にかかっている旭川市内の壁いっぱいの模型図の前です。昭和57年の、オープンのころに作られ、30年近く経っています。そして、…こんな話をします。
「旭川市内に京都地名が二箇所あります。わかりますか?」二つの『京都地名』…半分くらいの人がすぐに「嵐山」と答えます。しかし、もう一つの地名はまず出てきません。相当な難問のようです。
京都から来られたお客さんでも分からないのですから。後は私が答えを出さなきゃどうしようもなくなります。
もう一つは、いま上川神社がある「神楽岡」です。このことは、私も旭川郷土博物館の元館長であった松井恒幸さんから教えられました。松井さんは、郷土雑誌『旭川市民文芸』(19号)の論文「旭川村開村のなぞ」で、「神楽岡」の地名は初代の北海道庁長官の岩村通俊が命名したと推論しています。また明治22年に視察に来た2代目北海道庁長官の永山武四郎が、「神楽山」の題で『上川の清き流れに身をそそぎ 神楽の岡に御幸仰がん』この岡に天皇の行幸を仰がんと詠んでいます。
そこで、私は果たして京都に「神楽岡」という地名が本当にあるのかどうか、インターネットで探って見ました。本当にありました。京都御所の裏側にある小高い岡、吉田山の中です。確かに「神楽岡通り」という地名が今もありました。どうぞ機会がありましたら一度検索してみて下さい。
なぜ、こんな話をするかというと、旭川兵村の屯田兵400戸のうちに京都出身者が45戸もいるからです。さらにいうなら、その人たちの旭川兵村に来るきっかけが、それら旭川の京都地名に隠れているからです。それは昭和16年発行の「東旭川五十年史」に載っている元屯田兵たちの座談会の記事に伺えます。『将来、旭川に離宮(上川)が置かれると聞いた』から旭川兵村に来たと「離宮」を応募の理由に上げた京都出身の屯田兵がいたのです。
熊やオオカミが跋扈する未開の地、いつ外国から攻められるか分からない危険な地…と家族や多くの親戚から反対されたのに、将来の上川離宮設置が来村のきっかけになったのです。
なぜなら旭川屯田兵が話した「離宮」とは、岩村通俊(初代の北海道庁長官)の「北京構想」の中にあったのです。
岩村の北海道開発計画は上川を中心に中央道路を敷き、そこから周辺へ開発を広げるという構想で、西京(京都)、東京に対して北の京という都を旭川に置き、あわせて「上川離宮」を設けて拠点とするという構想なのです。この構想は2代目北海道庁長官の永山武四郎にも引き継がれる(上川離宮を設置する構想は、永山以上に宮内省のプッシュが強かった)のですが、「北京」という京都イメージは、明治26年に岩村が書いた「上川紀行」にも掲載されています。旭川市史(旧)4巻の資料編に……皆いわく「何ぞ甚だ西京に類するや。これ実にわが邦他日の北都なり」と。けだし石狩岳(旭岳)は比叡山に似、その川(石狩川)は鴨川の如く、而して規模の大、遠くこれに過ぐ…とあります。
まさに、岩村は、この旭川を京都のイメージで見ていることがよくわかります。
2. 屯田兵の結婚
それでは、つぎに旭川兵村の暮らしから屯田兵の結婚について少し書きます。
常設展示室に入ってすぐに設置されている建物、旭川兵村に400戸建てられた「屯田兵屋」の一軒です。この兵屋は、秋田藩の士族・寺門重和が居住しました。21歳の重和は、父親(戊辰戦争で功をあげたといわれる)、母親、妹ふたりの家族4人を伴って来ました。そして翌年になって、近所の兵屋に入居した青森出身の士族で屯田兵、小山内寿雄
(23歳)の妹ヒサと結婚しました。ヒサは19歳でしたが、子連れでした。
そこで、旭川兵村の屯田兵の結婚について、私なりに調べましたので、ちょっと話します。まず、戸主である屯田兵400人の内、304人(76%)が独身でした。この人たちの年齢は、応募の条件により17歳から25歳(明治23年の改正)で、家族の中でも若年の兄弟が意図的(一番の働き手でない者)に当てられました。これらに対して結婚の相手となる適齢期の女性はどれだけいたのかです。この時代の適齢期とは何歳から何歳くらいをいうのか難しいのですが、一応13歳から20歳代として数えてみました。その適齢女性は、211人になります。やはり推測したとおりで、結婚難といいますか、嫁不足が明らかです。100人ほどお嫁さんが不足します。さらに厳密にいうなら、これら戸主の屯田兵の他に、適齢期の兄弟がまだ30人ほどいました。
そんなことで、入村した屯田の中には、将来、息子の嫁にしようとまだ適齢に達していない娘を「縁女」とか「養女」とかで入籍して連れて来ていました。そういう娘さんが10人ほどいました。いまニュースなどで耳にする援助交際の「援助」とは違いますよ。
この調査には、東旭川屯田会が発行した「写真集 兵村」(記念館で発売中)の中にある『屯田兵入地時の家族名簿』を参考にしました。この調査からも、屯田兵の寺門重和が子連れの小山内ヒサと結婚しても、さして問題でなかったことがわかります。
3. ことしの特別展
それでは、もうひとつ本年度の旭川兵村記念館特別展について、PRさせていただきます。
昨年度の特別展「まるまる日の丸展」-くらしの中の『日の丸』-は、おかげさまで道外のお客様からも大変な感動をもってご観覧いただきました。あらためてご利用いただきました皆様に深く感謝申し上げます。
さて、本年度の特別展も昨年に引き続き、旭川在住の郷土資料収集家・百井昌男氏の絶大なご協力により開催いたします。ことしのタイトルは「ふるさとの残像」-昭和の旭川から-。テーマは、昭和の旭川の出来事・流行・世相・町並み・くらしなどから歴史の諸相を引き出して回想します。展示の構成は、旭川の戦前から戦後を時間軸にして博覧会、最大の娯楽であった映画、町並みの変遷、さらには市民の暮らしについて興味深く展示します。そして、主な展示資料は、目玉資料として「北海道開発大博覧会記念大屏風」(旭川市博物館所蔵)、ほかは、百井氏所蔵の聖戦興亜大博覧会・防空展覧会・警察博覧会などの博覧会関係資料、師団通り・平和通り・映画街などの町並み(写真、絵葉書等)、思い出の映画ポスター、懐かしのスターのブロマイド、酒のマチ、旭川関係資料、その他市民のくらし関係資料が数多く展示されています。
最後に、最近来館されたお客さん、特に50~60代の方々から、「屯田のこころとは」、「明治のこころとは」という抽象的ですが実は真をつく問いが掛けられます。それは、「屯田魂」などという言葉をあてる人もいますが、私は明治人のひたむきな真面目さだと捉えています。また、昨年の、スマップの木村拓哉という二枚目が主役になった「武士の一分」という映画がありましたが、私には屯田にもこの「一分」が働いていたように思えるのです。これは、人にあわせる顔、世間に対するほまれ、体裁などで、つまりは自分が持つべき道徳心、戒めではなかったのでしょうか。私としては「屯田の一分」という言葉で言いたいのです。
いよいよ本日より本年度の開館です。ご来館、こころよりお待ちいたしております。









